「人間とは何か」。社会学者の大澤真幸氏がこの巨大な問いと格闘してきた連載『社会性の起原』。講談社のPR誌『本』に掲載されていましたが、85回からは場所を現代ビジネスに移し、さらに考察を重ねています(これまでの連載はこちらからご覧になれます)。
道徳のヴァージョンアップの意義――再確認
道徳は、三者関係の中で展開する。これは、三人がいなければ道徳は始まらない、という意味ではない。道徳においては、アクチュアルには二人しかいないときでさえも、ヴァーチャルな第三者が存在しているかのように事態が進行するのだ。このような道徳の本性のゆえに、進化ゲーム理論をいかに複雑化していったとしても、道徳という現象を説明するには至らない。道徳が成立する上での必須の要件となっている、ヴァーチャルな第三者を、われわれは「第三者の審級」と呼んできた。
さて、われわれの当面の課題は、第三者の審級がいかにして「間身体的連鎖」(二人称的な関係性)から離陸できたのかにあった。第三者の審級の離陸によって、はじめて、「道徳のヴァージョンアップ」が可能になる。道徳のヴァージョンアップとは、同じ道徳が適用される範囲が大規模化することであった。私が個人的にはよく知らない他者に関しても、私が従っているのと同じ道徳に従っているという期待をもつことができるようになること、これが道徳のヴァージョンアップの帰結である。
ヴァージョンアップした道徳は、内集団と外集団の区別にも役立つ。同じ道徳に従っている者が、つまり私と同じように振る舞う者が、内集団のメンバー、つまり私の「仲間」である。そのような相手に関してならば、私は、私への一定程度の協力や好意的な態度を期待することができる。そうではない他者、つまり同じ道徳に従っているようには見えない他者は、外集団に属しており、私は、そのような他者には、私に対する協力的な行動を必ずしも期待できない。その他者は、もしかすると、敵のひとりかもしれない。
第三者の審級の間身体的連鎖からの離陸はいかにして可能なのか。この問いに答えるためには、「抽象力」(マルクス)が必要だ。連載のここまでの議論の中で見てきた実験や観察から示される諸事実を整合的に理解できるような説明を、一個の仮説として提示してみよう。
誰が王様の裸を知らなかったのか
が、その前にもう一度、道徳現象は三者関係のうちにある、ということの意味を深く理解するために、誰でも知っている寓話を参照しておきたい。それは、アンデルセンの「裸の王様」である*1。
この寓話の結末で、ひとりの子どもが「王様は裸だ!」と叫び、王の――国民たちにとっての――権威が失墜する。誰も真実を知らなかったのに、子どもがそれを暴いて……、という筋ではない。この童話において最も興味深い点は、普通に考えれば、王様が裸であるということを知らなかった者はどこにもいない……ということだ。王のパレードを見ていた国民の中に、子どもの指摘によって初めて王の裸に気づいた、という者は一人もいない。
ならば誰が、王が裸であるのを知らなかったのか? 言い換えれば、「王様は裸だ」という子どもの発話は、誰に対するメッセージとして機能しているのか? その答えこそ、第三者の審級である。知らなかったのは第三者の審級であり、子どもの発話は、第三者の審級に「それ」を知らしめる効果をもったのだ*2。この寓話が有意味であるためには、第三者の審級が存在していることが前提になる。つまり、登場人物たちが、無意識のうちに第三者の審級が存在していると想定していなければ、この寓話は、一貫した物語として成立しえない。
「裸の王様」は、現実にはほとんどありえないフィクショナルな出来事を描いている……と理解したら、それはおおまちがいである。むしろ、ごく普通に起きていること、われわれの道徳現象の一般は、「裸の王様」に――厳密に言えば子どものあの発話が出現するより前の状況に――喩えられる。たとえば、学校の先生とか、どこか有名な寺の高僧とか、裁判官とかが、説教したり、法話をしたり、判決をくだしたりするときのことを思ってみよう。「道徳的に振る舞う」とは、この場合、先生や僧侶や裁判官を
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