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Monday, February 22, 2021

【内田樹】『秋刀魚の味』はなぜ日本映画オールタイム・ベストなのか──みんなで語ろう!「わが日本映画」 - GQ JAPAN

TATSURU UCHIDA

守るも攻むるも黒鐵の

小津安二郎の映画は全部好きですけど、一つだけ選ぶなら『秋刀魚の味』です。たぶん20回は観ています。他の小津作品では1回きりというのもありますが、これだけは何度観ても面白いし、そのつど新しい発見がある。
娘の結婚話がメインのストーリーですけれど、隠れたテーマは戦争です。映画の最後は「守るも攻むるも黒鐵の、か」という「軍艦マーチ」の一節で終わるんですから。この吐き出すような「か」の破裂音に主人公・平山(笠智衆)の戦争経験のすべてが込められている。

小津自身は3度軍隊に行っています。徴兵検査の後に1年間。1937年から2年間は下士官として中国戦線に従軍して、軍曹で除隊しています。さらに43年から敗戦までは軍報道部員として戦意高揚映画を撮るためにシンガポールにいました(実際には英軍から押収したハリウッド映画を観て過ごしたのですが)。5年以上を軍隊で過ごしたのですから、小津自身は軍隊のことも軍人のことも熟知していた。でも、小津は自分の映画にはついに一度も軍人を登場させなかった。軍人が嫌いだったんです。その点では徹底しています。でも、『秋刀魚の味』のテーマは戦争なんです。

戦争経験者の一番つらいことは自分が経験したことを他人と共有できないことです。記憶を確認し合い、その経験の意味について語り合うことができないことです。家族とも友人とも共有できない。戦争のときに自分がしたこと、自分の眼で見たことをそのまま話してしまったら、父として夫として家族に向ける顔がない。一市民として生き続けることがむずかしい。だから、口をつぐむしかない。戦争から帰って来た男たちはみな程度の差はあれそういうトラウマを抱えていました。

坂本(加東大介)はその中にあって例外的に深い心の傷を負わずに戦争を生き延びた人物です。だから、彼は戦争について大声で語ることができる。「軍艦マーチ」を懐かしみ、バーのマダム(岸田今日子)に海軍式の敬礼の仕方を教え、「アメリカに勝っていたら」というような妄想もたくましくすることもできる。平山の「負けてよかったじゃないか」という言葉に応じて、「そうかもしれねえな。バカな野郎がいばらなくなっただけでもね」という涼しい戦争総括もできる。

坂本はそう言い切ったあとに、「艦長、あんたのこっちゃありませんよ。あんたは別だ」と続けます。平山は軍人としてもおそらく筋目の通った人だったのでしょう。部下を気づかい、理不尽なことはしなかった。個人的には顧みて恥じることはしていない。でも、「バカな野郎」がすることを座視していたことは間違いありません。そのせいで多くの若者を死なせた。それに対する忸怩たる思いは消し難くある。

だから、平山の戦後の17年間はかなり空虚なものだったと思います。戦前の自分との連続性がないからです。記憶を共有し、語り合う相手がいない。河合(中村伸郎)も堀江(北竜二)も親友ですけれど、話題はすべて旧制中学時代の昔話と猥談と子どもの縁談の話だけです。「おまえ、女学生にラブレターを出して停学をくらっただろう」というようなことは事細かに記憶しているけれど、戦争の記憶は誰ひとり蒸し返さない。

「結局人生はひとりじゃ。ひとりぼっちですわ」と瓢箪(東野英治郎)は慨嘆しますけれど、その言葉は戦争経験者たちの、自分の経験を誰とも共有できないという孤独とも重ね書きされているように僕には思えます。

小津ワールドの「3人の悪いおやじたち」

小津ワールドの「3人の悪いおやじたち」

平山の長女・路子役の岩下志麻にとって、この作品が台詞らしい台詞のついた役の最初です。小津が彼女を抜擢したのは、たぶんよけいな芝居をしない(できない)からだと思います。小津はセリフを棒読みする役者が好きなんです。杉村春子や中村伸郎や三井弘次のような癖のある濃い俳優も使うけれど、吉田輝雄や三上真一郎のような演技をしない俳優も使うし、菅原通済のような素人も使う。

小津の有名な逸話に、仲居が襖を開けてお辞儀をするだけの場面で60テイクまでやらせたというのもあります。さすがに60回も同じことをやらされると、役者も何がなんだかわからなくなる。もう芝居も何もできないという状態になる。そうするとオッケーが出る。俳優たちが気取った芝居をしない。それが小津映画に独特の透明感をもたらしています。だから、どの映画も5秒ぐらい観ると、「あ、小津作品だ」とわかります。

『長屋紳士録』だけは例外で、冒頭に声だけ聴こえてくる台詞が妙に芝居がかっている。まるで小津映画らしくない。でも、実はそれは男(河村黎吉)が「芝居の声色」の稽古をしている場面なのです。だから、物語が始まるとすぐいつもの台詞棒読みに戻る。そして、その瞬間に観客は安定の「小津ワールド」に連れ込まれる。

『秋刀魚の味』には観客を「小津ワールド」に一瞬のうちに拉致する名人芸的カットがあります。

料亭若松で河合と平山と堀江の3人がクラス会の相談をしているシーンです。まず平山の席から見た堀江のバストショット。切り返して、堀江から見た平山の穏やかな笑顔。そして「瓢箪なんか呼ぶことないよ」と突き放す河合を正面から写したショット。でも、河合の前の席は実は無人なんです。ですから、この瞬間に観客は「河合の前の席に座って、河合にまっすぐ話しかけられている4番目の人物」として小津の物語の中に巻き込まれている。

笠智衆、中村伸郎、北竜二の3人は小津映画ではおなじみのキャラクターです。「3人の悪いおやじたち」という設定は佐分利信も入れた4人の順列組み合わせで『秋日和』『彼岸花』にも登場します。役名も若松のセットも使い回し。この男たちを作り出したことで、後期の小津作品は娯楽性と深みをともに獲得しました。

この3人の描き方から「日本の男」を小津がどう見ていたかがわかります。彼らは日本の高学歴男性の通弊として、機会あるごとに自他の学歴に言及します。『秋日和』で3人は大学時代に「本郷三丁目」の薬屋の娘に岡惚れしたというエピソードを一つ話にしていますが、それは彼らが東京帝大の卒業生であることを迂回的に指示しています。どの映画でも、縁談の話が出るたびに「東大の建築」とか「早稲田の政経」といった学歴が最初の属性として言及されます。『秋刀魚の味』での岩下志麻の見合い相手は「東大の医科を出た」と紹介されますが、彼は画面には最後まで出て来ません。男たちはもっぱら家柄、学歴、勤務先という記号レベルで扱われます。

もう一つの特徴は、男たちが口にする冗談のほとんどが猥談であることです。今なら完全に「セクハラ認定」されるような下品で、無神経なジョークを彼らは執拗に口にする。

戦争について黙して語らない男たちは、学歴の話と猥談についてだけは能弁なのです。この男たちのやりきれない軽薄さと幼児性を小津は容赦なく描きます。

でも、小津自身はこの不出来な男たちを突き放したり、批判したりしているのではありません。ただ「男というのは、そういうものだ」と淡々と描いている。その不出来な男の一人として、良いところも悪いところもまるごと描いている。

女性たちは男たちの幼児性の犠牲者

佐田啓二はいかにも小津好みの「芝居をしない俳優」ですが、『秋刀魚の味』の長男・幸一の演技は卓越しています。佐田啓二は当時30代半ば。それが若さを失って、ゆっくり中年に崩れ落ちてゆく男の危うさをみごとに演じています。

出世の先も見え、妻の秋子(岡田茉莉子)が夫に向ける言葉はとげとげしく、もはやゴルフだけが生き甲斐という「つまらない中年」になりつつある幸一ですが、昼休みのオフィス街の屋上の打ち放しケージで無言のままドライバーショットを3連打する時のスイングは息を呑むほど美しい。アパートの一室で妻にがみがみ叱られているときはくたびれた老いの横顔を見せる幸一がこのゴルフスイングの場面と結婚式の正装の場面では輝くように美しい。

ぴかぴかの美青年と疲れ切った中年男を佐田啓二は『秋刀魚の味』では場面が替わる毎に演じ分けるんです。これはほんとにすごいです。これが男性観客にはたぶん「じん」と来るんだと思います。自分が青春を失って、気がついたら「おっさん」と呼ばれるようになった時のあの喪失感を思い出して。

小津安二郎は一人の男のうちにある幼児と少年と老人を鮮やかに描き分けることができる人でした。それを残酷なぐらい写実的に描いた。そして、小津映画に出てくる女性たちはみな男たちの幼児性の犠牲者です。

『秋刀魚の味』では、アイロンかけをしている岩下志麻に笠智衆が唐突に「お嫁に行かないか」と切り出し、その身勝手さに娘が怒り出すシーン。岡田茉莉子が夫の佐田啓二に対して不満を募らせるのも、父親から借金してゴルフクラブを買おうとしたり、反対されると拗ねて黙り込んだりといった彼の幼児的な態度に苛立つからです。どうしていつまでも子どものままなのか。いいかげんに大人になってよと妻は怒っている。杉村春子が父親の東野英治郎に絶望するのも、その幼児性に耐えられないからです。なぜ正体を失うまで酒を飲むのか、なぜ他人の事情を気づかうことができないのか。

小津映画に出てくる女たちは全員が男の幼児性によって苦しみます。小津映画は全部そうなんです。そうやって「大人になれよ」というひそかなメッセージを小津は男たちに送っている。

そして、「大人になる」ための手がかりも小津は映画の中で示しています。社会的地位はそこそこ高いのに、幼児性を抱え込んでいる男たちが、それでも魅力的に見える瞬間がある。それは男たちが幼児と老人の中間の「青年」の相貌を示す時です。

『秋刀魚の味』では、平山が瓢箪にお金を届ける時がそうです。穏やかに、しかし威儀を崩さずに、相手に屈辱感を与えずに金を渡すという困難なミッションを果たす時、平山は青年の顔になります。あるいは瓢箪を送り出した後に菅原通済が「今日はよい功徳をしたよ」と一言呟く時も。
存在そのものが「青年」という男も時々出てきます。『秋刀魚の味』では三浦(吉田輝雄)がそうです。『お茶漬けの味』の鶴田浩二、『お早よう』の佐田啓二、『小早川家の秋』の宝田明もそういう青年たちです。
彼らはみな少年らしさを残していますけれど、それは幼児性ではありません。女性に甘えもせず、威張りもせず、ただ親切に、正直に接する。そういう風通しのよい青年を小津はときどき造形します。たぶん、男はどんな年齢であっても、なにかのはずみで一瞬「青年」になることがある。手に負えない幼児性と老成と青年のみずみずしさ、それらを併せ持っているのが成熟した男なのだ。小津はそんなふうに考えているように僕には思えます。ただ、世俗を脱して好々爺然としているのが「男の成熟」ではない。男が成熟するというのは、もっと複雑な存在になることだ、と。

『秋刀魚の味』のラストシーンで、「守るも攻むるも黒鐵の、か」と歌ったあと平山は台所で一人コップから水を飲みます。それは女に頼らず、女を支配せず、これから男ひとりで生きてゆくということを決意したということであり、それと同時に戦争が自分の心に残した傷とひとりで向き合うことを選択したということです。

戦争は男の幼児性が生み出します。女たちも男の幼児性の犠牲となって苦しみます。『秋刀魚の味』は「男はどう成熟するのか」という小津の生涯変わらぬ問いをめぐる映画ですが、それゆえ「反戦映画」として、あるいは「フェミニズム映画」としても観ることができる。そういう多面性と深みを具えている。ですから、『秋刀魚の味』はこれからも決して古びることがないだろうと僕は思います。

オススメの1本

『秋刀魚の味』

1962年公開、監督:小津安二郎。主人公・平山(笠智衆)は長女、路子(岩下志麻)の結婚について、元漢文の教師の瓢箪(東野英治郎)と40年ぶりに再会したことがきっかけになって考え始める。小津安二郎定番のユーモアとペーソスあふれる物語は、1962(昭和37)年8月~撮影、11月18日に公開された。¥2,800(DVD)/発売・販売元:松竹

PROFILE

内田 樹

倫理学者、哲学研究者、思想家、翻訳家

1950年生まれ。神戸女学院大学名誉教授。思想家、哲学者にして武道家(合気道7段)、そして随筆家。「知的怪物」と本誌スズキ編集長。合気道の道場と寺子屋を兼ねた「凱風館」を神戸で主宰する。

文・内田 樹

イラスト:しりあがり寿 Shiriagarikotobuki

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